『罪の声』を観る前に知っておきたいグリコ・森永事件と近年の劇場型犯罪

事実と仮説が織りなすリアルな映画『罪の声』

客層としては結構若いお客さんも多く、中には高校生の子たちも劇場で見かけました。小栗旬か星野源のファン、または純粋に映画が好きなファンなのかは分からないですが、彼らにとって本作のモチーフとなったグリコ・森永事件はどう認識されているのかは少し気になりました。

グリコ・森永事件が1984年〜85年に掛けて起きた事件なので、私の年齢でいうと2才か3才です。もちろん記憶としてはまったくありません。ただ、昭和が終わるタイミングや、平成では過去の衝撃映像や事件を取り扱うテレビ番組、また本事件の時効のタイミングでの特集など、テレビ主流の時代ではそういう情報獲得の機会には恵まれていた気がします。

本作、その題材においても特にフォーカスされているのが、犯行声明に使われた「声」。原作を書いた塩田武士が着目した、その子供の声が自分とほぼ同世代であることというのは頭の中で考えたことがあります。自分より少し年上でもしかしたら近くにいるのかもしれないと過ぎったこともあったと思います。もちろん、本作で描いているように、その子どもの人生について深く想像を巡らせるところまではなかったですが。

この映画は年齢によって、モチーフたるグリコ・森永事件に触れたタイミングによって、感じ方が違う気がします。

ちなみに星野源は私と同じ年、小栗旬はひとつ年下です。劇中の設定も近しいものだったと思うので、特に星野源演じる曽根俊哉と私の感覚は近い気がしています。

カセットテープが押入れから出てきてその声が自分だとわかる。そんなくだり、私も経験があります。

経験に基づくリアルと、情報に基づく少しのリアルと、そこからの想像を巡らせたリアルかアンリアルか分からないストーリー。
本作は私に感じさせてくれた重厚なサスペンスで、濃厚なヒューマンドラマでした。

前置きが長くなってしまいましたが、少しながら事前に知っておくとこの映画を楽しめるだろうという要素をまとめてみました。物語の核心には触れないことに気遣いながらグリコ・森永事件との違いや最近の劇場型犯罪について考えてみたので、ぜひ読んで頂けるとうれしいです。

『罪の声』とグリコ・森永事件の差異

グリコ・森永事件とは企業名やら固有名称は異なる設定になっています。劇中では企業名はギンガ・満堂となっています。

劇中で当初犯人たちが犯行声明で名乗っていた「くら魔天狗」は、史実グリコ・森永事件においては「怪人二十一面相」と名乗っていました。

この「怪盗二十一面相」はもとは江戸川乱歩の小説に出てくる怪盗で「宝石だとか、美術品だとか、美しくてめずらしくて、非常に高価な品物を盗むばかりで、現金にはあまり興味を持たない」というダークヒーローな設定です。

世直しを匂わす名乗り、マスコミ宛に声明を出す行動、また「キツネ目の男」など一部の情報がまた世の想像力を掻き立て、大きく取り上げられた(結果、未解決)事件になったと思います。

「キツネ目の男」というのは実際、グリコ・森永事件でも犯人グループの一員として似顔絵が出回ったものです。(つり上げ細目の男の人は、当時かなり生きづらかったのでは、、、といらぬ心配をしてしまいます。)

一連の事件の流れは本作とグリコ・森永事件は似合わせています。

ただし、グリコ・森永事件は犯人の目的も、犯人グループも、なにも確かなことはわかっていません。

とはいえ、「罪の声」における犯人グループの設定と犯人の目的などはかなり辻褄の合う話しだと思っています。本作における設定は当時、仮説としてはどれもあったものだそうです。ただし、一義的に解釈せず、現実的な範囲で複合的に考えるとこれは名推理だと思えます。

この妙な説得力がこの映画の魅力ですし、その上で”声の主”の人生に着目したヒューマンドラマなのが、単なるサスペンス映画で終わらず重みを感じさせる仕上がりになっていると思います。

時代を色濃くあらわす劇場型犯罪の事件

振り返ると劇場型というのは時代をより濃く写すもののような気がします。

メディアの形態、価値観や世論、社会問題。

グリコ・森永事件では第2次ベビーブーム(71年〜74年)の後で、子供の数も多く、その影響もありお菓子メーカーの持つ影響力が大きいと踏んで、犯人たちの対象になった可能性もあります。また、声紋判別も十分にかなわない時代のため、肉声を出すこともリスクが少なく、一方でインパクトを植え付けることを可能にしました。

劇中でも描かれている過激派がまだ時代的に強く認識されている当時、正義の拳をかざす目的だと捉える見方もあったのでしょう。

結果論ではありますが、すごく時代の特徴が現れています。

近年ですと、個人的に印象深いのが「黒子のバスケ脅迫事件」

作者である藤巻忠俊を名指しして、事件を起こし、マスコミあてに続々と次なる犯罪予告をして黒子のバスケの関連商業イベントに損害を与えました。

犯人は無事逮捕されましたが、その後の話では社会的格差の富と成功の対象として勝手に黒子のバスケの作者を設定し、そこに対して執拗に攻撃を仕掛けました。面識もなく、被告自身が「人生格差犯罪」と呼び、「無敵の人(人間関係も社会的な地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間)にどう向き合うべきかを真剣に考えるべき」と裁判で言い放ったそうです。

インターネットでの書き込み、それを大いに取り上げたマスコミ、情報社会においてターゲットとなり得る著名人・成功者、格差が見えやすく、かつ広がる現代社会。

私の生きている時代においては、これが衝撃的な劇場型犯罪と言えるかもしれません。

これもいつかなにかの作品のモチーフになったり、インスパイアされた作品が出てくる気がしています。

それでも、こういう社会を色濃く反映した犯罪を、エンターテイメントを通して風化させず、「見えない被害」に想像力を届かすことを常々我々は考えていかないといけないのだと、この映画を通して感じました。

劇場型犯罪において、情報社会の現在、見る側とメディア、相応にして発する側も受ける側も、その責任の配分は等しいものになってきているように思えます。我々は自由に情報を取れる中で、何をどう騒ぐのか。無意識で受取処理することはもはや許されない時代になってきているのかもしれません。